那覇・国際通りの中心地、旧沖縄三越(国際通りのれん街)の跡地がついに動きます。
琉球新報さんの報道により、大和ハウス工業と第一交通産業による共同開発の全貌が見えてきました。
しかし、この場所を語る上で欠かせないのが、戦後から続く「デパートの歴史」です。
今回は、最新の再開発情報とともに、かつてこの地を彩った**「山形屋」時代のノスタルジックな記憶**を紐解きます。
記事によると、今回のプロジェクトは、大和ハウス工業と第一交通産業がタッグを組んだ、敷地面積1,000坪超という空前の規模の再開発です。
長らく「暫定利用」が続いていたあの一等地が、ついに国際通りの「顔」として再定義されることになりそうです。
今回の再開発に大和ハウスが名を連ねている点には、戦略的な背景が見え隠れします。
大和ハウスは、国際通りの安里側に位置する「カーゴス那覇国際通り
かつての国際通りは「奇跡の1マイル」と呼ばれつつも、近年は建物の老朽化とオーナーの高齢化による「開発の停滞」が課題でした。
そこに国内屈指の開発力を持つ大和ハウスが乗り出したことは、国際通り全体の資産価値を底上げする、地元財界にとっても待望のシナリオなのかもしれません。
ちなみに、那覇バスターミナルの再開発を主導したのは第一交通さんです。
このタッグは頼もしいですね。
今の若い世代には「三越」や「のれん街」のイメージが強いですが、年配のウチナーンチュにとって、ここは**「山形屋(やまがたや)」**の記憶が強く刻まれている場所です。
1930年に那覇市東町で創業した山形屋は、戦後の1950年に現在の三越跡地へと移転しました。当時の沖縄において、山形屋は単なるお店ではなく**「都会の象徴」**そのもの。エスカレーターに乗ること自体がイベントだった時代です。
昭和30年代〜40年代、山形屋の屋上には小さな遊園地がありました。
「デパートで買い物をして、屋上で遊び、食堂でお子様ランチを食べる」というのが、当時の子供たちにとって最高のご馳走であり、ステータスだったのです。三越に変わった後も、あの独特の「ワクワクする空気感」は引き継がれていました。
1999年に山形屋が惜しまれつつ閉店した際、その建物と場所を引き継いだのが沖縄三越でした。つまり、今回の解体によって、戦後の那覇のデパート文化を支え続けた「箱(建物)」そのものが、ついにその役割を終えることになります。
琉球新報さんが伝えた今回の再開発は、単なるビルの建て替えではありません。
山形屋が築き、三越が守ってきた「国際通りで一番輝く場所」というバトンが、今度は大和ハウスという現代のトップランナーへと渡されたのです。
2028年〜2029年頃に誕生する新施設が、かつての山形屋のように、再び沖縄の人々をワクワクさせてくれる場所になることを願ってやみません。
琉球新報が報じた再開発ニュース。
その場所を地図で見ると、まさに国際通りの「へそ(中心)」であることがわかります。
この一画がどう変わり、今に至るのか。周辺の歴史的な移り変わりを紐解くと、沖縄の戦後史そのものが見えてきます。
戦後、那覇の街が米軍による「1フィート運動」などで焼き尽くされた後、最も早く復興を遂げたのがこのエリアでした。
1948年に「アーニー・パイル国際劇場」という映画館が近くに建ったことから「国際通り」と呼ばれるようになります。
当時はまだ砂利道で、周辺にはバラックの商店が並んでいました。
1950年、山形屋が現在の場所にオープンしたことは、沖縄の人々にとって「平和と繁栄」のシンボルでした。
当時、国際通りの周辺には**「ガーブ川」**という川が流れており(現在は道路の下の暗渠になっています)、その周辺にヤミ市から発展した商店が密集していました。
山形屋は、そのカオスな活気の中に現れた、唯一の「モダンな西洋文化の窓口」だったのです。
1960年代から70年代にかけて、旧三越の周辺には強力なライバルが次々と誕生しました。
当時は「買い物といえば国際通り」という時代。
特に山形屋から平和通り、公設市場へと続く動線は、県内最大の繁華街として、立錐の余地もないほどの人波で溢れていました。
2000年代に入り、おもろまち(那覇新都心)の開発や郊外型ショッピングモールの台頭により、国際通りの役割は「県民の買い物の場」から「観光のメインストリート」へと大きく変化しました。
三越が閉店した後、この建物が「のれん街」という形で維持されたことは、国際通りの中核が空洞化するのを防ぐ大きな役割を果たしていました。
今回、大和ハウス工業と第一交通産業が踏み切った再開発は、昭和の「百貨店」、平成の「観光地化」を経て、令和の**「国際的な観光・ビジネス拠点」**への進化を意味しているのかもしれません。
かつての山形屋がそうであったように、再び「高層階」から国際通りを見渡せる場所ができるのかどうか楽しみです。
屋上遊園地に代わり、今度は外資系ホテルのラウンジや最新の商業フロアが、新しい那覇の景色を作ることになるかもしれません。
旧沖縄三越(山形屋)の再開発を語る上で、切っても切り離せないのが、隣接する**「那覇タワー」**の存在です。
国際通りのツインタワーのように並び立っていたこの2つの建物は、那覇の戦後復興と高度経済成長の象徴でした。
那覇タワーの歴史と、今回の再開発との関わりについても深く掘り下げてみましょう。
旧三越のすぐ隣にそびえ立っていた「那覇タワー」。
かつては県内最高層を誇り、国際通りのどこからでも見える羅針盤のような存在でした。
1973年、本土復帰の翌年に開業した那覇タワーは、地上19階・高さ約82メートルの超高層ビルでした。
最大の特徴は、最上階にあった**「回転展望レストラン」**です。
ゆっくりと360度回転しながら、那覇の街並みや東シナ海を眺めて食事ができる場所は、当時の県民にとって「最高の社交場」であり、ハレの日の舞台でした。
よく『元管制塔だったの?』と聞かれる那覇タワーですが、実は純粋な民間ビル。
設計したのは沖縄建築界の巨匠・金城信吉氏でした。
かつての回転レストランでは、1時間かけてゆっくりと那覇の街が一周し、誕生日やプロポーズの聖地としても愛されていました。
今回の再開発では、そのタワー跡地も一体化されるため、まさに『伝説の場所』が一つにまとまることになります。
「管制塔」という誤解も、それだけあの形が個性的で、那覇の空を象徴していた証拠と言えるかもしれませんね。
2000年代に入ると、タワー内には「タワーレコード那覇店」が入居し、音楽好きの若者が集まるカルチャーの発信地となりました。
三越が「伝統的な百貨店」だったのに対し、那覇タワーは常に「時代の最先端」や「若者文化」を象徴する、対照的かつ補完的な関係だったと言えます。
しかし、建物の老朽化が進み、2008年頃から多くのテナントが撤退。2014年には完全に閉鎖され、長らく放置されたことで「幽霊ビル」のように語られる悲しい時期もありました。
ついに2020年から解体が始まり、現在は更地やコインパーキングとなって、かつての巨大な影は姿を消しています。
今回の「大和ハウス・第一交通」による再開発計画が衝撃的なのは、**「那覇タワー跡地との一体開発」**の可能性が極めて高いためです。
つまり、かつて分断されていた「百貨店」と「タワー」の敷地が、半世紀以上の時を経て一つの巨大な「国際通り新拠点」として統合される可能性があるかもしれません。
| 時代 | 旧三越の場所 | 那覇タワーの場所 | 周辺の様子 |
| 1950年代 | 山形屋が移転オープン | まだ低層の建物 | 国際通りが急速に復興 |
| 1970年代 | 三越として賑わう | 那覇タワー開業 | 回転レストランが人気に |
| 1990年代 | 百貨店黄金期の終焉 | タワーレコード等が入居 | おもろまち等へ客足が分散 |
| 2020年代 | のれん街から解体へ | 解体完了、更地へ | 一体開発プロジェクト始動 |
バラバラに解体され、別々の運命を辿ってきた国際通りの一等地のピースたちが、大和ハウスの手によってついに一つの大きな絵(再開発ビル)になろうとしています。
那覇タワーがかつて担っていた「空からの眺望」と、三越・山形屋が担っていた「お買い物の楽しさ」。
これらが最新のスペックで復活する日は、もうすぐそこまで来ています。
周辺の歴史を振り返ると、この場所はいつの時代も「その時、沖縄で一番新しいもの」を受け入れる場所でした。
古い建物が取り壊される寂しさはありますが、琉球新報の報じた「1,000坪の再開発」は、かつての山形屋が初めて国際通りに現れた時と同じような、新しい時代の幕開けなのかもしれません。
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